いずれも。

あれもこれも、いずれも必然。

カリスマ性なくても、リーダーになれますか?

ボクは会社でリーダーはめざしません宣言をしたことがある。
 
ボクの中でリーダーというのは、強力なリーダーシップを発揮して皆をぐいぐい引っ張っていく人というイメージができあがっていたからだ。どう考えてもボクはそういうタイプではないし、できればリーダーをサポートするような役割を担っていきたいと考えた。
 
そもそも弱点を克服しようともがいてるうちに人生が終わってしまったらどうする?長所を磨いてもっと人生を楽しもうぜ!というのがボクの持論なので、そういう結論に至るのにそれほど時間は必要としなかった。
 
しかし、会社はそれを許さず、ボクにリーダー的役割を求める。せっかく期待してもらえるなら、がんばってみるしかないか!と気持ちを切り替えて過ごす中で、こんな記事が目に止まった。
 

「リーダーになりたくない」は「仕事をしたくない」という表明と同じ――齋藤孝先生と考える最強チームの作り方

 
ええ、「自分がリーダーに向いているかを考える時間は無駄だ」ということですね。なぜなら誰もがリーダーという自覚を持って、チームを回していくことを求められているからです。
そうなのかもしれない。
 
あからさまではなかったとしても、リーダーに責任を押し付け、そのやり方が気に食わなかったら、愚痴をこぼす。それってあまりにも無責任だよなぁ。リーダーという役割をイメージするから抵抗感が生まれるけれど、仕事に対して当事者意識を持って望むのは、アタリマエに求められる姿勢だ。
カリスマをリーダーと思うな」と伝えたいですね。リーダーにはさまざまな形があって、支えるリーダーもいれば、マネジャー的な細やかな配慮に長けたリーダーもいます。カリスマである必要はまったくないんですよ。
ボクの最大の勘違いはこれだな。
 
何の影響かは知らないけれど、ボクは持って生まれた才能とか威厳に満ちたリーダーに憧れすぎているから、自分にはムリだと線を引いたわけだ。
 
必要なのはカリスマ性じゃない。当事者意識を持って真剣に仕事に向き合う中、気がついたらリーダーになっている瞬間がある。そしてまた、次の瞬間には別の人がリーダーに、というのが理想の組織のあり方なんだろうな。
 
ただ、現実に目を向けると、大勢の責任を押し付ける側の人たちにそんな当事者意識を持った限られた人が、押しつぶされていく悲劇が起こる。そんな光景を見て、ボクのような軟弱な人は自分にはムリだと旗をおろしてしまう。
 
人のコトバを鵜呑みにはできない性分のボクはついそんなことも考えてしまうけれど、それでも、リーダーをめざしません宣言は撤回して、カリスマ性なんてなくていいんだ!と言い聞かせながら、がんばってみることにしよう。