いずれも。

あれもこれも、いずれも必然。

複雑な世の中で当事者意識につぶされないでほしい。

 やっぱり「本気」と「当事者意識」について考えてみる。

 
 
そのやられ様があまりにも見事なせいで、これまで主役にばかりなりたがってた連中が、雑魚キャラやばいよ、かっこいいよ、オレたちも雑魚になろうよ、雑魚に!雑魚がいい!うるせえこの雑魚が!いやだって雑魚って言われても実際雑魚だし!あーもーうるさいな、もーいいよ、雑魚かっこいい、それでもーいいよ!という状況を作りたい。(犬だって言いたいことがあるのだ。)
読みながらちょっと笑ってしまった。いつも思うんだけれど、こういういぬじんさんの意図した微妙な論点のズラし具合が面白くてスキだ。一歩間違えると、ただ茶化しているようにもとられかねないけれど、そう感じさせないのは軸として言うべきことは、きっちり言ってるからだろう。
 
ここで語られる「本気」と「当事者意識」のテーマはボクも気になっていたけれど、なんとなく気軽には言及しにくい雰囲気が漂っていて、スルーしそうになっていた。ちょっと笑わせてもらってハードルが下がったと勘違いしてる間に少し書いてみようかな。
 

自分の人生における当事者意識は何より大事だ。

本気になれない人には「当事者意識」が足りない - ゆーすとの日記

 

ここぞって時に本気になれる人となれない人の違いは、当事者意識の有無です。
人生には何度か「ここぞ」って場面があります。そこで上手くいくかどうかでその後の人生が大きく変わってしまうような場面――あるいはそこまでじゃなくても、重要な転機と思われる場面。その時心の底から当事者意識をもって臨める人が「本気になれる人」、そうでない人が「本気になれない人」です。(ゆーすとの日記)

 自分の人生に当事者意識を持てないなんてありえない!とおっさんになったボクは思うけれど、思い返してみれば、学生の頃とか社会人になって2〜3年の頃なんて当事者意識という言葉すら知らず、ふわふわと漂うように生きてたからなぁ。

 
未来のことなどお構いなしに日々楽しむことには本気だったけれど、そんな本気はゆーすとさんのいう当事者意識には全然つながらないわけで、人生に真剣に向き合うという意味で本気にならなきゃいけないということなんだろうな。
 
自分の人生なんだから、流される瞬間はあったとしても「ここぞ」というときには当事者意識を持って本気で舵取りをしていかなかったら、後悔するよ?という警告にボクは全く異論はないな。
 

社会的責任から持たされる当事者意識とどう向き合うか? 

 
 
いくらがんばろうと、努力しようとしても、それが周囲から押し付けられたもので、本当はやりたいことじゃなかったり、疑問を感じたりすることだってあるはずだ。それでは、「当事者意識」なんて持てるはずもない。だって、「自分ごと」じゃないから。(ぐるりみち。)
ここではもう少し局所的に、与えられた何らかの役割に対して求められる当事者意識について言及されている。この場合は自分の人生に対する舵取りとは直接的には関係がなく、社会的責任において舵取りは自分ができないけれど、当事者意識は持たされる面白くない状況に陥る。
 
たとえば常に誠実でいたいという価値観の人が営業職に就いたとする。自分ではどうしてもいい製品とは思えないモノを人を欺いてでも売ってこい!と命令されたとしたらどうなるか?
 
自分の人生に本気で向き合うなら、人を欺くことはできずに営業ノルマはこなせず「当事者意識を持て!」と罵られるだろう。仕事に本気で向き合うなら、誠実でいたいという自分を捨てることになるから、それは人生における当事者意識の放棄を意味する。
 
何が言いたいかというと、自分の人生に対する当事者意識と役割上人から与えられる当事者意識は、全く異質のものだということだ。人生に関わることは存分に本気で向き合っていけばいい。だけど、社会的責任から生じることは事務的に責任を果たしたほうがいいこともある。強すぎる当事者意識や本気さは自分の精神的破滅を招くことだってあるから気をつけたほうがいい。
 
世の中はとても複雑で本気になって当事者意識を持つだけでは、なかなかうまくいかないようにできている。自分には抱えきれないほどの当事者意識を背負って壊れそうになることもある。そんな責任感の強い純粋すぎる人たちが理不尽さに翻弄されないことを切に願っているし、ボクは自分の職場ではそのためにできることを見つけて、ささやかな抵抗を続けていきたい。
 
これって当事者意識からくる発言だな。
誰に持たされたわけでもないものだから、本気出していこう。