なぜ、穏やかでやさしくあることにこだわるのか?

2022年8月26日  2022年8月26日 

久々にYahoo知恵袋を見ていたら、ものすごく不毛すぎるやりとりを見つけた。質問はこんな内容だ。

世の中に理不尽や不合理や馬鹿がなければ、僕は穏やかで優しい人なんです。世の中のせいで優しいままでいられないんです。仕方ないですよね?

何人かの回答者が「それで優しくいられないなら、あなたは本当にやさしい人ではない」と言い「そんな自分を受け入れましょう」と言ってるのだけど、質問者はまったく聞き入れない。

頑なに「世の中のせいで優しくいられない。僕は穏やかでやさしい人なのに」と繰り返している。

誰かが言っているように理不尽や不合理はいいとして、馬鹿という人を見下す言葉を使っている時点でやさしい人ではないよなぁと思う。

ただ「やさしさとは何か?」というのが人によって違うだろうから、当人が「僕はやさしいのだ」と言っているのを「いや、やさしくなんかない」と言っても、永久に交わらないのは明白だ。

質問内容は「僕はやさしい人でしょうか?」じゃないのに、その解を返されて質問者は読解力のない馬鹿共のせいで、また僕はやさしくいられない、とでも思ってそうである。

ボクが何かを書き込むなら「世の中は理不尽に満ちているから、スルーしたくてもできず、心穏やかにいられないことが多いですよねぇ」なんていう当たり障りないことを書くだろう。

質問者の反応を見る限り、ボクのこんなゆるふわな反応ですら、何か噛み付いてきそうな雰囲気はある。あえて理不尽という言葉しか拾ってないのがひっかかるかもしれない。

それにしても気になるのは、なぜ、質問者は「僕は穏やかでやさしい」ということに異常にこだわってるんだろう?ということだ。

何が理由にせよ「穏やかでやさしくいられない」なら、それがその人にとって最優先事項じゃないんじゃないかと思う。それよりも優先するものがあるから穏やかでやさしくいられないのだ。つまり、それは世の中のせいじゃなく、自分の選択の結果である。

あのYahoo知恵袋のやりとりから察するに、それを捨ててでも、自分の正当性や世の中の理不尽、不合理、馬鹿さを訴えたそうで、そっちのほうが大事なんだろうに、なぜそこまで穏やかでやさしいということにこだわっているんだろう。

ちなみにボクは穏やかでやさしい人だとよく言われるほうだ。そして、自分でもそうありたいとは思っているけど、自分で「ボクは穏やかでやさしい人です」とは言ったことないなぁ。いや、そんな人はいないだろ。冗談交じりに言うことはあったとしても。

実際のところ、心がざわざわすることはいっぱいあるし、人を攻撃する言葉が頭の中をぐるぐるすることもしょっちゅうある。残念ながら、人がそう評してくれるほど、ボクは穏やかじゃないし、やさしくもないのである。

もうひとつ気になるのは、世の中に失望していながら、その世の中の一部であるYahoo知恵袋に何かを期待して書き込むというのは、どういう心理状態なんだろう?ということだ。

世の中と交わればやさしくいられないとわかっているのに、何の義務もないYahoo知恵袋にわざわざ書き込むという行為は謎だ。できるだけ世の中に関わらないようにすれば、やさしくいられるというのに。

あの質問者に聞いてみたい好奇心と、その先に待っているであろうざわざわとぐるぐるを秤にかけて、ボクは何もしないことに決めたのでした。

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