いずれも。

あれもこれも、いずれも必然。

少しのズレも許せないせこい人間になりたくない。

もし、息子が実は自分の子ではなく、出生時に取り違えられていて、自分の子は他の誰かと暮らしてるとしたら?なんて想像するだけで嫌になる。録画してた「そして父になる」をようやく見たんだけど、否応なしにそんなことを考えさせられてしまった。

自分が子を持つ前に見ていたら、少し感想は違ったのかもしれない。今となってはもう戻れないし、戻りたくもなくて、確かめる術はないけれど。

そして父になる DVDスタンダード・エディション

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ボクはこの映画の福山雅治が演じる良多のようにできるビジネスマンじゃないし、エリート志向でもないし、たぶん躾にきびしいタイプでもないだろう。でも、理想はある。こんなふうになってくれたらいいな、という願いは書き出してみればいくつかあるだろう。

でも、子供が成長していく過程で自分の理想とはズレていったとき・・・というか自分の思い通りに育つことなんてないから、盛大にズレていくんだろうけども、それを受け入れていける自分でいたい、というのがこの映画を見て一番強く考えたことだった。

取り違えが判明したとき、思わず「やっぱりか」と呟いた良多は、自分の理想と目の前にいる息子慶多のズレしか見ていなかった。アレもコレもといつもズレが目についていたから、あんな言葉が出たんだろう。そして、自分の実の子ならば、もっと自分の理想に近づけられるはずだという思いもあって、簡単に両方引き取るなんて言い出したんだろうなぁという気がする。

ズレしか見ていない父親に対して、息子慶多は父親の良いところをしっかり見ていて、仕事でがんばる父親、忙しくてもなんとか自分のために時間を作ってくれる父親、ピアノを褒めてくれる父親・・・その健気さには、なんか胸にこみ上げるモノがあった。

客観的に映画とかで自分の価値観を押し付ける父親像を見てると「それはないな」と思うものの、なんとなく「どうすれば生きやすいか?」を少しはわかったような気になっているボクは、自分が信じる方法を息子に押し付けてしまうこともあるような気がする。でも、いつかは1人で立たなければいけない息子にボクが渡すべきモノは、決められた台本じゃなく、数多くの選択肢とそれを選んでいくための思考力なんじゃないだろうか。

・・・いやー、なんとなくかっこつけて書いてるけど、自分だっていまだに迷ってるじゃないの。「どうすれば生きやすいか?」なんて分かっちゃいないだろ?「どうすれば生きづらいか?」を消去法で消しながら生きてきたじゃないか。たぶん、この先この映画の主人公良多のように、逆に息子に教えて貰うこともきっとたくさんある。時々間違えながらも、学んでいけばいい。息絶える瞬間に、なんとなくどうすれば生きやすいか、ちょっとだけわかったような気がする・・・がくっ。へんじがない。ただのしかばねのようだ、という感じに死ねたらいいかな。って、どんな感じやねん。