誰にも読まれなくても、書くのが好きだから書く



 僕にとってブログとはなんなんだろう?ということを改めて考えてみる。まず安直に「誰かに読んでもらいたい文章を公開する場所」というのが思い浮かんだ。読んでほしくない文章は公開しないのだから、それはそのとおりだという気がする。では、誰にも読んでもらえないなら、ブログに何か書くのをやめてしまうだろうか?

ただ書きたくて書いていた記憶

 インターネット黎明期(1999年~2000年ごろ)の記憶を遡ると、ブログなんてものがない時代に手間をかけてわざわざHTMLファイルをアップロードして日記のようなものを公開していたことが思い出される。アクセスカウンターの数を増やすのは自分だけで、誰も読んでくれる人はいない。それでも文章を公開するのは楽しかったのだ。

 もっと記憶を遡ってみる。僕は中学生のころ学級日誌に思ったことを書き綴るのが好きだった。一冊のノートに日直になった生徒が毎日交代で日誌を書くのだ。僕は常に1ページ或いはそれ以上の文章を書いていた。そんな人は他にいなかったから僕は異端だっただろう。そこでいじめに発展しそうなできごとについて書いたり、誰も教室を掃除しないのはなぜだろう?みたいなことを書いたりしていて、時々先生が皆の前で読み上げたりしていたのを覚えている。15歳の僕がそれをどう受け止めていたのかまでは思い出せないが、なんか先生に媚びていて嫌なやつなのは間違いない。そりゃ友達なんかできるものか。

 僕が嫌な中学生だったことはさておき、必要に迫られなくても僕は文章を書きたい人なんだろうし、たぶんそれが僕にとっての存在証明のようなもので、大げさに言えば書くことをやめたら僕はこの世界から消えてしまうような感覚に陥るのかもしれない。たしかのらてつ(@Foam_Crab)さんが似たようなことを言っていた気がするんだけど、どんな文脈だったのか、それがいつ、どこでの発言だったのかはっきりとは思い出せない。

強制的に払拭された欲望

 昔話が長くなったけど、僕はおそらく誰にも読まれなくてもブログを書き続けるだろうということは改めて確認できた。だから、何回書けなくなったとしても、こうしてまた書こうとしてしまう。ここまで僕にとって文章を書くとはどういうことなのかを、とてもまわりくどく書いてきたけど、これはもっと端的な言葉で言い表すことができる。僕は文章を書くことが好きだし、それをたまに誰かが読んでくれたらうれしいのだ。けっきょくはそれに尽きる。

 いつのまにか「書くのが好きだから書く」というふうに自分が書く動機をシンプルに説明できなくなっていた。書くからにはより多くの人に読んでもらいたい、とかこれから子供らの養育のことを考えると、1円でも多くお金がほしいとかそんな欲望にとらわれて、なんだか書くことが難しくなったし、そんな欲望は何回払拭しようとしても、払拭しきれなかった。

 けっきょく自らそれを払拭することはできないまま時代は移ろい、ブログで収益を得ることも、Googleに気に入ってもらって多くの人に読んでもらうことも以前より格段に難しくなった。そもそも動画を楽しむ人が増えて、日常的にブログを読む人が減ってしまったという感覚がある。強制的に「書くのが好きだから書く」しかなくなったわけだ。

好きだからやる、の強烈なエネルギー

 つい最近、僕ははじめて4s4kiのライブに行き、最前列ど真ん中というこれ以上はない最良の位置で満喫することができた。そこで目の当たりにしたのは「音楽が好きだからやっている」という強烈なエネルギーの放射だった。それと併せて自分自身でも「ただ4s4kiが好きだからここにいる」という強い衝動を感じた。「好きだからやる」というのは、言葉にするとあまりに陳腐だが、音楽として圧倒的な熱量で降り注がれるものには抗えない説得力があった。

 そんな熱狂から冷めてみると、なんだそんな当たり前のこと、それがどうした?という感じにはなってしまうけれど、実際、僕の中の「書くのが好きだから書く」という思いはSEOライティングに傾倒することで大きく損なわれてしまっていたし、ライブだって奥さんと子供をほったらかして自分だけ楽しんでいいんだろうかとずっと葛藤していたのだ。「好きだからやる」というのは、少なくとも僕の場合は簡単に失われてしまいがちなのである。

 生きていくためには耐え難きを耐えるということが少なからず求められ、自分が好きなこと、やりたいこととは相反してしまう。よくビジネス書なんかでは「好きをお金に」みたいな言説をみかけるけど、そんなことが叶う人はおそらく一握り、いや一つまみだろう。それを求める人生は高確率で後悔につながっていくと思っておいたほうがよい。卑屈な感じがしなくもないが、それは現実だ。ずっとそこに至れない欲求不満や自己否定を抱えて生きていくのは不幸の極みである。

 だから生きていくために必要なことは淡々とこなしつつ、好きなことを絶やさず続けていきたい。それが何かにつながるとかじゃなくても、その瞬間が楽しければそれでいいし、そんなささやかな楽しみが積み重なって、悪くない人生だったなと振り返れるようになっていくならそれで十分だ。

いま、どんな思いでブログを書くのか

 なんて今まさに悟りました、という感じに書いているけれど、こんなことは何回も気づいて、何回も忘れて、何回も思い返している。
特に儲かるわけでもないブログを毎日のように更新し続けられるのです。勘違いや思い込みが入り込む余地などありません。私は文章を書くことが好きで、誰かに何かを教えるのが好きで、自分で書いたもので楽しんでもらうのが好きで、・・・・・・といったことに確信を持てます。(ブログを10年続けて、僕が考えたこと)
 これを読んだときも僕は「好きだからやる」ことのエネルギーの放射を感じたはずで、今書いていることと似たようなことを考えたはずだ。しかし、倉下さんの『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』を読んだ2015年当初はまだ、誰もがブログで稼ぐことが不可能ではない状況だったから、前述したような欲望を僕は払拭できなかったのである。

 少し自省しつつ2015年を振り返ったけど、「好きだからやる」という衝動がもはや何度目の揺り戻しなのか、今まさに悟ったという感じなのかは問題じゃない。大事なのは、いまどんな思いでまたブログを書きたいと思っているのかだ。別にお金を稼げなくても、誰にも読まれなくても書きたいという、僕の素直な思いは十分にわかったから、あとは好きなように書き連ねるだけだ。
B! LINE