人生には嫌なことが多いが、ささやかな幸せもある

僕は 人生には嫌なことのほうが多い と考えるタイプの人間だ。まぁちょっと良いことがあれば、人生悪くないな、と思う単純さも持ち合わせているのだけれど、多くの人と関わることは、嫌なことに遭遇する確率を高めてしまうんじゃないか?なんて馬鹿なことを考えたりもする。20代ぐらいの頃は、人と自分の線引きがうまくできず、際限なく共感性を発揮して、人の感情を勝手に汲み取って背負いきれないものを背負って苦しくなる、というようなことを繰り返していたから、そんなふうに思うのかもしれない。 その際限ない共感性は、人を依存させてしまい、例えば夜中の3時に電話するような愚行に走らせてしまう。それは相手が悪いんじゃなく、「さすがにこれは迷惑だ」と言わない僕が悪いのだ。ただ自己肯定感が乏しく、いざというときに、それを発揮すべき相手を見つけることもできなかった僕は、手当たり次第といってもいいくらい、中途半端な優しさというか、 際限のない自己犠牲精神を発揮していた のだった。 謎の自己犠牲精神の発露 なぜ、急にそんな過去を振り返ったのかというと〈物語〉シリーズのエピソードゼロにあたる『傷物語』3部作をようやく見て、思うところがあったからだ。僕が謎の自己犠牲精神の愚かしさに気づいたとき、主人公である阿良々木暦の言う「友達をつくると人間強度が下がる」という理屈に似たことを考えるに至ったような気がする。何がきっかけでそれに気づいたのかは思い出せないが、たぶん、思い出さないほうがよい種類の記憶だろうから、そっとしておいて『傷物語』について語ってみたい。 以降『傷物語』のネタバレを含む語りが展開される ので、まだ見ていない人は読まないほうが賢明であるとお伝えしておく。 瀕死のキスショット・アセロラ・オリオン・ハートアンダーブレードから、一旦は逃げ出した 阿良々木暦がなぜ戻って自分の命を差し出したのか? これが『傷物語』の〈物語〉シリーズのはじまりのエピソードで、まず疑問を抱かずにいられない箇所だが、あれは謎の自己犠牲精神の発露だ。わかりやすく強く求められる状況に向き合うと、自分の存在が肯定されたような感覚になるというか。阿良々木暦が自らを「間抜け」と評した行為を見て、なぜそんなことをするのかと最初は理解できなかったけど、昔の自分自身の自己犠牲精神を思い出して、ほんの少しわかったような気がした。 た