今際の際にアイデンティティを書き換える

   肺がんで余命宣告を受けていた父が、その宣告どおりに5月末に亡くなってしまった。余命宣告を受けた人がそれを覆して、何年も生きるとか、珍しい話じゃないし、父もそうなんじゃないかと思っていたけど、そうはならなかった。

   本人に自覚があれば、何か話しておきたいことはないかとか、やりたいことはないかとかそんなやりとりができたのだろうけど、わかっていてそう振る舞っていたのか、本当に自覚がなかったのか父とはそんなやりとりはできなかった。

   亡くなる直前ぐらいに、長男の運動会があって、かけっこで長男が1番になったと話したら「その足の速さは俺譲りだ。昔は陸上部だったからな」と嬉しそうに語りだした。

   え?そんな話聞いたことないよ。父が足が早いなんて思ったこともないし。母ですら初耳だと言う。考えてみれば、僕も運動はまったくダメだけど、足だけは早いほうだった。

   リレーでアンカーを務めたり、野球では代走で出たりしていたのを思い出した。サッカーでは、ボールに追いつくのに、あさっての方向にボールを蹴ってしまったり、バスケでは焦ってボールを敵にパスしたり、バレーでは顔面レシーブしてぶっ倒れたりしていた。なんだか余計なことを思い出して、わざわざ恥を晒してしまったじゃないか。

   父が死の直前でそんなふうに足の速さをアピールしたから、通夜での葬儀屋のナレーションで「俊足だった〇〇様」と語られることになり、そんな僕らにとっても新事実で、本当かどうか確認しようもないことが父のアイデンティティのように語られるのが、不謹慎にもちょっと面白かった。

   僕も死の直前に「実は」と語る何かを考えておこう。本当かどうか確認しようもないことって、なんだろう?1秒間に18連射できるとかにするか。「コウ様は高橋名人を凌ぐ連射スキルをお持ちで」とかナレーションしてもらうのだ。そもそも連射を必要とするゲームなんかやらない(というかびっくりするぐらいへたくそだ)から、一瞬でバレる嘘だ。

   あ、いや、別に父が嘘を言い残したと言いたいわけじゃなく、死の直前に自分のアイデンティティを書き換えたってのは、割とすごいことだなぁと思うわけである。よく自己啓発書で死後どう語られたいかという話が出てきて、それに従って自分を律することをすすめられるけど、最後にちょっと言い残すだけで、1秒間に18連射できる人と語ってもらうことができるわけだ。でも、それが別に嬉しくないことに今気づいた。しかも、しょーもない嘘をつく小物だったと思われる可能性大である。そもそも、我が子らに伝えたところで、本当のことかどうかわからないどころか、18連射がなんのことかわからないだろう。

   いいか、髙橋名人というのはな、ファミコン全盛期に・・・え?ファミコンが何かって?ファミコンってのは、ファミリーコンピータの略で家庭用ゲーム機の・・・がくっ。へんじがない。ただのしかばねのようだ。

   最後にファミコンとは何かを説明しかけて死んでいくとか、なんかとても切ないな。これではせいぜいゲームが好きだったコウ様としか語られそうにない。いや、ゲームは好きだからハズレてないんだけど、父のように僕もアイデンティティを書き換えたいのだよ。

   そんな人生の最後に自分が確認できないようなやり方で、自分を良く見せようとするんじゃなくて、日々努力して自分を磨いたらどうなんだ。大切なのは生きている今だろう?

   極めて当たり前の結論に辿り着いてしまったし、なんだか説教じみていて、つまらない大人になってしまったなぁとしみじみ思うのでした。

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